photo by David East@Unsplash
こんばんは。
BGM:Doja Cat / I Don’t Do Drugs (Visualizer) ft. Ariana Grande / by Planet Her
大好きなariana grandeちゃんがdoja catと歌ってた。知らなかった。不覚。
文章を書くのが昔から好きだった。
一時、夢が小説家になったりしたけれど、書いて、書いて、書いて、私は小説家ではないのかもと思った。
役者をやっていたときもブログを書いていた。でも、そのころでも文章が上手く書けたことはなく、自分の内面もさらし切らず、ずいぶん中途半端なものを世に出していていた気がする。
役者をやめてから、役者名で別の新しいブログを作って文章を書いた。そのうち占いブログになってしまい「ああ、もう」と思いながら最後には消してしまった。あのブログはなかなかな私らしさの塊だったけれど、まだよく見せたい欲が時々顔を出していた。
文章は、本来、『本当』を伝えるために存在していると思う。だから、文章を書くときによく見せようなどとしてしまうと、文章自体がにごってしまうのだ。
かといって人間の心は当たり前のように自分をよく見せるように働く。カメラを向けられたら自動的にかわいい顔をしちゃうみたいに、文章を書くときには、面接の前のように、なるべくいい自分であろうとするのだ。
私は心の中で、常に綱渡りをしながら、文章を書いている。
読んでくれる人に近づきすぎてはだめ(自分らしさの喪失)
自分の世界に入り込みすぎてはだめ(読みやすさの喪失)
私は最初に作家が文章を書き上げる。そのあと編集が登場して、「こんな分かりづらい文章書きやがって!」と整えてくれる。(作家と編集さんがいるのは心の中)
編集さんはバサバサ切り落としてくれるから、作家の私は自由に羽を伸ばせる。
なぜ文章を書くのか、それは私でも分からない。
祈りのようなものにも近い。
私が私であるように、この世界とつながる手段といえるかもしれない。
昔はこれを安易にお金を稼ぐ手段にしようとしていた。でも、苦しすぎてやめた。だから私は文章のプロではないんだろうなと感じる。プロであるのがいいとか悪いとかではなく。
もちろん、そのことに悩んだ時もあった。
しかし、色々な仕事をしてきた(している)私が、実は一番しっくりくるのが「ライター」という肩書なのも事実だったりする。
私は肩書の「ライター」をきっと生涯手放せないんだろう。
(文章でお金を稼いでいないならライターと名乗ってはいけないという法律がなくて本当に良かった)
時々、私の文章を気に入ってくれたり、ほめてくれる人が現れる。
すっごくありがたいけれど、私は自分の文章の良さがあんまりわからなかったりする(本当に失礼な話)。
なぜかというとこの文章は全部私そのままだから。
買ってきた人参をそのまま何もせずお皿の上にのせて出している感じ。
この感じ、伝わるかな?
でも、もちろん、ありがとうと思っているから。それはたぶんきっと、ほめてくれた人が私を気に入ってくれたということだと思うから。
ああ、でも、ほめられればほめられるほど、私はよく見せたくなってしまう。私の文章を好いてくれている人は、私がよく見せた文章など好きではないのにね。
今日も私は綱渡りをしている。
読んでくれる人に近づきすぎてはだめ
自分の世界に入り込みすぎてはだめ
そしてなにより、嘘をついてはだめ
たとえちょっとした、意味があんまりなさそうな、こんな日記の文章だったとしても、よく見せたい奈落の上に張られた「私」の綱の上を一歩一歩、踏みしめて、どうにかこうにか何の加工もされていない「私」を文字に紡ぎだしている。